紅桜篇の意義について

紅桜篇って銀さんの過去に関わる話の最初の長編なんですよね。今までふんわりとしか伝えられてなかった銀さんの過去が少しだけ明らかになって、ただのちゃらんぽらん野郎だと思ってた銀さんには実は重い過去があったんだ!という「匂わせ編」なんですよね。オタク偏差値高い人はそこでもう「過去の色々を背負ってるから今はあんなちゃらんぽらんを装ってるんだな…」とか推察できちゃいますよね。銀さんは決して自分から自分の過去を語ったりしないし、美談にも悲劇にもしないし、そんな銀さんの性格がギュッと詰まったセリフが「ラーメンこぼして捨てた」なんだと私は思います。本当に坂田銀時という男は、っていうか銀魂の登場人物は、ほとんど自分のこと語らないので、見てる側が推察しなきゃいけないんですよ。

紅桜篇も銀さんと桂の共闘があったりととっても格好良いお話ですが、実際は過去が全て明らかになったわけでもないし銀さんと高杉が闘ったわけじゃないし、何かが解決したわけでもないし、意外と「何もしてない」のが紅桜篇なんですよね。というかそもそも銀さんと高杉はそんなに対峙しない。空知はなかなか彼らを対峙させてくれません。そこが彼らの関係における「萌え」だと私は思います。

つまり紅桜篇は序章に過ぎないんですよね。


で、以上を踏まえて実写のお話。

実写映画すごく面白かったです。銀魂見てるなーって感じでした。まあ、あくまで「実写映画としては最高に面白かった」の域なので、批判とかあるのは仕方ないと思います。

ていうか上で書いたように、紅桜篇は前後の流れあっての紅桜篇なので、あれだけ単発でやるのは難しいと思うんですよね。確かに良い話だけどさ。

あとなかなか本心を見せてくれなくて回りくどいことばかりしてる登場人物がたくさんいる銀魂という作品と、大衆受け、つまり「誰にでもわかりやすく」を狙う邦画の相性が合うのか?という疑問もあるので、多分モヤっとされた方はそこが原因じゃないでしょうか。だってあの銀さん聞いたら過去のことベラベラ喋りそうだもん。高杉もただの破壊神みたいな感じだったもん。

大枠で見たら「何もしてない」が紅桜篇の肝だと思ってるので、銀さんと高杉が対峙したのも、原作ファンからしたら解釈違い。でも演出は格好良かったし単発映画だから闘わせなきゃ盛り上がりに欠ける。ってところですよね。難しい。やっぱ紅桜篇は空知の世界観が本当に本当に丸写しの回なので、他の人が新たに表現するのは難しいよね!?空知じゃなきゃ「ラーメンこぼして捨てた」なんて出てこないもんね!?